2010年9月14日火曜日

武田家最後の未完城、新府城

甲府盆地の西にある韮崎市を二つに区切るのが七里岩と呼ばれる台地で、新府城はその七里岩を石垣とし、その脇を流れる釜無川を堀として武田勝頼により築かれましたが、完成後わずか3ヶ月で廃城として逃げなければならなくなった悲劇の城として有名です。

地元山梨県内でも武田信玄の功績があまりにも大きく、逆に勝頼は武田家を滅亡させた者として評価されていない面も多々あるのですが、この新府城の設計を見てもそれは眉唾ものだったと言う人もおります。

実際に新府城に訪れてもらえばわかりますが、釜無川の削った高い崖の上に築城されておりここを攻めこむことはまず不可能でしょう。断崖は129mもの高さがあります。東側も多少の平野のあとはガクッと低くなっており、北には能見城、南には白山城、東には日之城を備えています。

もともと、当時の戦も農民たちの力を借りなくては成し得ることができず、そのことで戦を行える期間というのは限られていました。しかし武田信玄の死後、織田信長は兵農分離を断行し大規模作戦を可能にしたことで、勝頼は織田の苦渋を舐めることが多くなっていきました。
そのような現状から、当時の館である躑躅ヶ崎館(現在の武田神社)では防衛に不安があったことから、大規模な新しい城府を構える必要性を感じ韮崎の七里岩南端に新府を構えることとなったわけです。

しかしながら、武田軍内部の謀反や寝返り、離反が相次ぎ、わずか3ヶ月でこの城を機能させることなく焼き払わねばなりませんでした。

ただここから逃げた勝頼も、小山田氏の裏切りにより笹子峠を超えて大月市にある岩殿城に入ることが出来ず、結局田野(甲州市)にて自害することとなり今は景徳院に眠っています。

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